両親の転居 歴史と決意

両親

人生って短い。

気づけば両親の年齢は80歳を超え、なんだかいろいろ頼りないのである。頼りなくなった両親は若かりし頃のように思い通りに世間を渡り歩くことが難しくなっていく。あまりに頼りないので世間が提示する障壁を独力で乗り越えることもできず、頼る気なんかなかったはずの子どもたちに頼るしかない状態に陥ってしまう。頼りにされる方も世間知らずだからたいして役には立たない。それでもなんとかしようと頑張る。障壁は高く、湧き上がる各々の感情に振り回され、物事はスムーズに前進せずあちこちにぶつかって苦労が絶えない。

これは、両親と私の日々の記録。

まずは、ちょっと長い家族の歴史を。

私の両親は昭和30年代に恋愛結婚をし、京都府の乙訓地域で三人の子どもを育てた。ありきたりの家庭だが、家庭内には幾多の苦労や争点があり、屈折と深い溝が生まれた。それでも子どもたちは成長して大人となり独立していく。父の定年退職と老後が迫る頃、病気知らずの母が乳がんに罹患した。その後長く母を苦しめることなる外科手術の後遺症は強烈であったが、そのおかげで母の対娘圧力が弱まり、一人娘の私は救われたとも言える。少し、ではあったけど

月日は流れて2015年、母は癌サバイバーとして苦痛を抱えながら耐えて生き続けていた。父は時に切れながらも母の生活を支えてきた。母は京都府立医大病院で乳がんの治療を受けていて、毎月の受診日には父の運転する車に乗って病院へ出かけていく。母に巣食った乳がんは、府立医大の力業で抑えつけられてはいるものの数年ごとにその存在を思い出させる動きに出る。だから母はいつまでたっても気が休まらない。いよいよがんに負けるに違いない、来年の今頃にはこの世にいないに違いない、もう死ぬ、とつぶやき続ける。病と闘う母の辛さを家族はわかっている。わかってはいるけれど、間もなく死ぬことを前提にして前を向けない、人生の楽しみなんか全部終わってしまったと言う母の毎日に、家族もめげていくものなのである。家族も普通の人間の集まりなので、いつも母を労わって優しく接する、なんてことはできないのだ。申し訳ないけど。よって母の愚痴も嘆きも適当にあしらいながらやり過ごしていくことになる。

初春の受診日のこと、父はあと数100メートルで自宅に到着する、というところで居眠り運転をして公園のフェンスに激突し、母と二人で乗車していた軽自動車のシャフトを折って全損させる、という自損事故をおこした。幸い本人たちに怪我はなく、一人徒歩で帰宅した母からの電話で職場から駆け付けた私は、動かなくなった愛車となぎ倒されたフェンスの前で茫然と立ち尽くす父の姿を目撃した。被害がさびさびのフェンスだけですんで良かったと心の底から思った。近所の住人を巻き込んでいたらどうなっていたことか。まったく。この日を境に父は通院日の送迎運転をやめた。父はすでに80歳を超えていた。

両親の家から府立医大までは、車で1時間ほどかかる。父による送迎、というありがたい恩恵を失った母は、これからは電車とバスで通院すると宣言した。母の乳がんは数年前に骨に転移し、またまた府立医大の力業で抑え込んではいるものの、もはや母はよたよたとしか歩けない。その歩行能力で、インバウンドが溢れかえる京都駅構内を歩き、満員のバスに乗って通院するなんてどうかしてる。普通はタクシーを利用するべきであろう。が、母はタクシーが嫌いなのである。昔、私がおなかにいた時、つわりが酷くてタクシーの中で嘔吐してしまったらしいのだが、その時のタクシーの運転者の冷たい仕打ちが忘れられないのである。そんな場面で冷たい仕打ちをされれば、誰だって忘れることはできないだろうけれど、母は標準よりもかなり執念深い。何十年たとうが乗りたくないものは乗りたくないのだ。昔のタクシー運転手の仕打ちのおかげで家族が苦労するはめになるとは、まったく理解に苦しむのだけれど、どうしようもないので、父がよたよたの母を支えて病院まで電車とバスで医大へ行くことになった。支える父も子供たちから見ればよろよろであるから、よろよろとよたよたの夫婦がインバウンドの大波にもまれて歩いて行く。この情景は、あまりにも切ない。切ないだけでなくて本当に危なかった。

私はどうすれば良いのだろう。このまま好きにしてもらうか、何か解決策を提示するべきなのか。

まず思いついたのは、転院であった。いったいぜんたい何故、病院は家から遠い府立医大でなければならないのか?近くの病院に転院すればよいではないか?

この提案は母によって即刻却下される。命をなんども助けてもらった府立医大への恩は深く、他の病院へ行くなどという裏切りは人間のすることではないのである。薬が多いから、病気のことを説明するのは大変だから、などなどの転院拒否理由が母から次々に提示される。どの理由もカルテの送付で片付くものばかりだが、転院など嫌なものは嫌なのである。

そこで、次に思いついたのは転居である。いっそのこと府立医大に近い家に転居すればいいではないか。

だめもとで言い出したこの提案は驚くことに母の賛意を受けたのである。私は正直びっくりした。転居してもいいのか。多分、母自身が電車とバスの通院に疲れきっていたのだと思う。築50年の家は古くなり、快適とはいえない状態になっていることも影響したかもしれない。両親の家は父が購入した父の城である。古家ではあっても大事な我が家。当然出てくる父の弱気な異議を黙殺し、2016年の冬、転居計画は強力に推進していくこととなった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました